これまで当ブログでは、胎蔵界曼荼羅について詳細に解読してきました。中央の仏から外周へと広がる配置は、まさに人という存在を中心にした、私たちが生きる世界そのものです。
色々な感情にもまれ、様々な縁に絡まれ、複雑に広がる選択肢。そんなカオスな世界に身を置いていることを示す図解であり、また、人として「いかに何物にも左右されない自由な自分を取り戻していくのか(悟りを開くのか)」の構造そのものでもあります。
本来は、僧侶が悟りを開き、無我の境地へとたどり着くための教本ですが、これを「空(くう)」の思考を使って読み解いたとき、何が見えてくるのかをお話ししていこうと思います。
結論から言えば、曼荼羅とは絶対的な神の国などではありません。 それは、何もない「空」というキャンバスの上に、人間が生きるために一時的に描いた「1つの構造」に過ぎないのです。
「空」の世界で、俯瞰してみた曼荼羅
「空」とは、すべての事象に固定された実体はなく、常に流動的であるという事実を指します。私たちの精神も、肉体も、本来は決まった形を持たない「空」の存在です。
これを念頭に置いて俯瞰してみた場合、曼荼羅の中心にいるのは、仏ではなく「無垢な自分自身」そのものになります。
自分自身が、自分そのものを俯瞰して見ていると思ってください。「今、見ている」という精神(エネルギー)が、自分を自分と認識しているからこその「自分」です。その俯瞰した視点で曼荼羅を見るとき、そこには何物でもない自分がいます。曼荼羅の世界観は、あなたの人生そのものになるのです。
感情というノイズと「即身成仏」
何物でもない自分に「感情」という作用が加わることで、無垢な自分にノイズが入り、そこに「個性」が生まれます。 逆を言えば、個性を排除すれば無垢な自分であり、その究極は「無」となります。僧侶的な言い方をすれば、「欲や煩悩を捨てれば神(仏)になる」という状態そのものを表しています。
これが即身成仏の考え方です。そもそも、自分の中に仏はいる。俗物を削ぎ落としたとき、そこには自分という仏がいる。これが本来、曼荼羅の示すものです。
考える作用、怒る作用、悲しむ作用。こういった事象が加わることで自分は形作られますが、それは「無垢な自分に形を生ませるためのノイズが入っている」ということです。そして多くの場合、そのノイズは他の誰でもなく、自分自身が入れているノイズなのです。
カオスの外縁(外金剛部)と俗世の解体新書
では、一番外側の「外金剛部(げこんごうぶ)」を見てみましょう。 カオスとも言われる外の世界の、ありとあらゆる縁がひしめく中に人は産み落とされます。
自分という感情がひしめく外には、環境や人との縁など、あなたにノイズを入れるものが数々存在します。中には、生きている限り絡み続け、切り離せないものもあります。それは天体や時間といった概念であり、外金剛部院では星宿や七曜・九曜、二十四節季などとして描かれています。
そう、「空」の視点に立って自分を見たとき、そこには自分の人生という世界(法界)が広がっており、その外(外金剛)には、生きていく中で繋がれている縁の数々が配置されていることがわかるはずです。
それを俯瞰で見たとき、それは自分が今生きている状況そのものであると気づきませんか?
「空」の視点で曼荼羅を「ありがたいもの」としてではなく、「即身成仏の中心にいる自分」として見ることができたとき。 その世界観は、昔の人が組み上げたとは思えないほど、ぞっとするほど綿密に表現された『俗世の解体新書』になります。
ここにさらに「空」の考え方を持ち込むと、「自分への執着」や、心や欲に支配され暴走する自分自身の姿が、はっきりと見えてくるはずです。
認識が「実(じつ)」を生む
この「何物でもない自分(空)」という視点に立つと、ある重要な事実に気づきます。 それは、「何かがそれを定義し、認識することではじめて、そこに『実(実体)』が生まれる」ということです。
これは物理的なものに限りません。感情も同様であり、実体があるものだけが認識の対象ではありません。「怒り」も「不安」も、あるいはスピリチュアルで言われる「気」や「縁」も、あなたがそれを「ある」と定義し、認識した瞬間に、あなたの中で実体化し、影響を及ぼし始めます。
これをさらに外側の視点で俯瞰するとどうなるか。 「自分が定義しなければ、そこに実は生まれない」のだから、何事も自分の想いや考え方ひとつで、どうとでもなるということです。
結論:二元論の縛りを解く
曼荼羅は、私たちが生きる世界を表し、そこにある縁や依存、ノイズの構造を克明に描いています。
しかし、そのカオスな世界の中で、「何を実(ある)とし、何を無(ない)とするのか」は、完全に自分次第なのです。
何が正しく、何が悪なのか。 それは人が人の世界で決めた「俗世のルール」であり、絶対的な普遍ではありません。もちろん、この社会に身を置く限りそのルールに縛られ、縁に絡め取られることは避けられません。
だからこそ、曼荼羅の綿密な構造(世界はどうできているか)を知り、「空」という教示(すべては自分が定義しているに過ぎない)を用いることで、私たちが抱えるほとんどの悩みは消え去ります。
「正しいか、間違っているか」「良いか、悪いか」。 二元論で世界を見るのは、しっかりと切り分けられていて分かりやすいのかもしれません。しかし、それはただの「縛り」です。二元論を採用した時点で、あなたの世界は狭く固定されてしまいます。
「空」の思考を持ち、柔軟かつ自分の可能性を広げること。 何物にも縛られない「視点の広さ」を確保することで、あなたが見える世界、そして生きる現実は、格段に変わるはずです。
曼荼羅以外の余計なところまで語ってしまいましたが、余談としてでも読んでいただけたのならうれしいです。非常につかみどころのない視点ではありますが、非常に役に立つ考え方だと自分は思います。
これが正しい、これが本質だと自分の信じるものを定義し示すのも否定はしませんが、私自身はそのような視点ではみえないものがおおいよなぁと思ってしまいます。
調和より普遍を、行動は人生を変える。



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