今、SNSに溢れている「遠隔参拝」という名の、どこか不確かな流行。 それをただ消費して終わらせるのではなく、信仰熱き時代から連々と紡がれてきた**『遥拝(ようはい)』**という確かな技法を使ってみてください。
誰かに運を丸投げするのではなく、自らの意志で想いを届ける。 その「能動的な祈り」こそが、あなたのリアル(現実)を劇的に変化させていくのです。
水は方円の器に従う… 『癸水』kisuiです。
最近、Instagramを本格的に始動しました。何を投稿すべきか、ずっと自問自答を繰り返す日々。伝えたいことは山ほどあるのに、テーマを絞りきれず、自分自身が「ブレている」と感じる時期もありました。
そんな葛藤の中で、どうしても僕の心に引っかかり続けていたものがあります。
■ 「ご利益の消費」への違和感
SNSに溢れる「パワースポット巡り」や「遠隔参拝」という名の、ご利益だけを強調した動画たち。それ自体を否定はしませんが、僕個人としては、神聖な空間をただのコンテンツとして**「消費」**するのが嫌だったのです。
正直に言いましょう。 「遠隔参拝」とは言っても、LIVEや動画にふわっと乗っかって祈ったところで、現実はそう簡単に変わりません。祈っている本人たちも、どこかで「あわよくば」という、依存に近い気持ちがあるのではないでしょうか(笑)。
僕は、本当に静寂と祈りが共存する、あの神社の空間が好きです。 人が来すぎて場が淀むのは嫌だけれど、かといって忘れ去られ、社が朽ちていくのはもっと耐えがたい。一度始まった信仰が途絶えることに、リアリストとして、そして一人の人間として、強い危機感を感じています。
だからこそ、無責任に神棚を作って放置するような「薄っぺらな関わり方」には、はっきりとNOと言いたいのです。
■ 遠隔参拝という不確かなものではなく
「遠隔参拝は嫌いなくせに、遥拝ならいいのか?」 そう思うかもしれません。しかし、僕にとってこの二つは決定的に別物です。
世に言う遠隔参拝の多くは、誰かの動画に便乗し、自分は何もしないまま棚ぼたを待つ「依存」に見えます。 対して**『遥拝(ようはい)』とは、信仰熱き時代から連々と紡がれてきた、自らの意志で想いを届けるための「能動的な技法」**です。
■ 心は「力」、想像は「技術」
僕はこう考えています。 心は「力」であり、想像は「技術」である。
これらを自らの意志で扱えるのは、人間だけに与えられた特別な特権です。 行きたくても行けない事情がある人のために、僕の動画を一つの「窓」にしてほしい。境内の空気、光の温かみ、その場所にある「リアリティ」を感じ取ってください。
自分の内側にある「想い」という力を、想像という技術を使って、正しいベクトルへと向けてあげる。 そうすれば、その想いは必ず現地へ届き、結果としてあなた自身の現実(リアル)を整えていきます。
■ 想像が「リアル」に変わる瞬間
心と創造がシンクロした瞬間、それはあなたにとっての真実へと変わります。 想像の中で境内の風を感じ、静かに手を合わせることができたなら、あなたはもう一人前です(笑)。
誰かに運を丸投げするのではなく、自らの足(意識)で神域に踏み込む。 そんな、穏やかで自立した祈りの形を、これから皆さんと一緒に深めていけたらと思っています。
調和より普遍を…[癸水]でした。



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