迷ってる時点で、答えはない。
今日は、そんな人生の迷いの中にいる方へ、少し衝撃的な事実をお伝えします。ズバリ言いましょう。「どちらにしようか猛烈に迷っている時点で、実は『どっちも不正解』か『どっちでもいい』」のです。
なぜなら、「気づき」が反応した時は、迷う余地などなく決定し行動しているからです。迷う理由はたった一つ。「どちらかを選ぶことで損をしたくない」という「損得勘定(エゴ)」が邪魔をしているに過ぎません。
水は方円の器に従う――[癸水]kisuiです。
■ 正解があるという幻想
冷酷なようですが、「人生の大きな岐路」などというものは存在しません。あるのは、「自分の『損得』が大きく絡む選択」だけです。
そもそも、「正解か、不正解か」で考えているうちは、本質的な選択には至っていません。本当に大事な選択は、派手なイベントの時ではなく、日々の些細な選択の中にこそ潜んでいます。
それに、選んだ後に「どこで間違ったのか?」と反省する必要もありません。人生の選択に、正解も不正解もないのです。以前お話しした通り、この世界には最初から「意味」そのものが存在しないのですから。
答えが用意されている「テスト」には正解と不正解がありますが、答えのない「人生」にはありません。「人生に正解がある」という概念そのものが、不要なのです。
■ 視点を変えれば希望が見える
世の中には確定した要素はありません。あなたが「これが正解だ」と答えを固定した瞬間、世界はそこで固まってしまいます。自分次第で世界は大きくも小さくもなるのに、自ら世界の限界を決めてしまっているのです。それでは息苦しくなりますし、希望も見出せない状況へと陥ります。
しかし、視点を変えれば「希望しかない」という未来が見えてきます。
社会の枠組みの中で生きる以上、行動が制限されるのは当然のこと。しかし、あなたの「思考」や「誰と関わるか」といった、自分自身の選択で変えられる領域には、無限の可能性が広がっています。
あなたの想い(認識)ひとつで、すべての可能性は開かれます。なぜなら、自身の認識こそが世界のすべてなのですから。
■ そうはいっても人である事実
……と、少し話が大きくなりましたが、ここでリアルな現実に戻しましょう。
理論は理解できても、私たちは人間です。執着も欲も、完全に消え去ることはありません。その感情に引っ張られることなど、当たり前のように起こります。しかし、その感情を少しでも自身の制御下に置くことができれば、より自由になり、不要な縛りから解放されます。
ここで勘違いしてほしくないのは、「欲や感情が悪だ」と言っているわけではない、ということです。それも自分の一部であると、まずは受け入れてください。
大事なのは、「欲」に素直になるのではなく、「自分」に素直になることです。自分がより楽で、自然体でいられるためにはどうするべきか。
「欲に素直になれば何でもありだ!」と、馬鹿みたいに暴走するのは、素直になったのではなく、ただ「馬鹿になった」だけです。そんな状態で社会に出れば、生きづらくて当然です。
「そんなコントロール、私にはできない…」と難しく考えていませんか?いいえ、決して難しくはありません。「欲を捨てろ」と言っているのではない。「欲との距離感、付き合い方を考えろ」と言っているのです。
「空」の思考を完全に実践できたら、確かに楽でしょう。しかし、人間である以上、そこには限界があります。その事実は忘れないでください。ですが、それは決して「悪」ではありません。人である限り、それは「必然」なのです。
■ 人生に正解は無く、あるのは自分なりの答え
皆が求める人生という個別の道に、正解はそもそも存在しません。あるのは社会人としてや、人としてこうあるべきという「社会から見た人の在り方」だけであり、それは必ずしも万人に正解をもたらすものではありません。それに、人生の正解を出せる人もいません。
価値観の違い、環境の違い、育ちの違い、教育の違いと、個は個でしかないのだから、相違があって当然なのです。相違があるならば、正解は一つではないし、そもそも正解というものも個々にしか存在しえないのです。
個の正解(自分にとっての正解)、これは言い換えれば、正解ではなく「自分にとっての最良の選択」と言えます。その視点を社会に重きを置くのか、個に重きを置くのか、これだけでも一つに絞れません。
一つに絞れる基準とは、「それは自分にとっての最良であるか」という1点のみです。
これをより最良とするための「空の視点」と「気づきの活用」であると理解してください。あなたの求める人生に絶対的な正解はありません。あるのは、最良の選択というリアルだけです。
調和より普遍を――「癸水」kisuiでした。


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