息をするように合わないのが当たり前というファクト
「相性」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。
多くの人が無意識に口にするのは、「運命の人」「好相性」、あるいは「息が合う」「意気投合」といった、どこか神秘的で耳当たりの良い言葉だ。他人がはなから自分と「無条件に相性がいい」という状態が、世界のどこかに最初から用意されていると信じてしまっている。
断言するが、そんなものはただの勘違いであり、都合の良い幻想だ。
個人と個人が無条件に、つまり「何もせず、努力もなしに」相性がいいということは断じてない。なぜなら、たとえ血の繋がった家族であっても、個人はそれぞれ完全に独立しており、その人の人生をその人自身が歩んでいるからだ。
この世界に「無条件の好相性」などという甘い構造はどこにも存在しない。まずはこの冷徹な事実を受け止める必要がある。
「分かり合える」という幻想
日常で起こる「たまたま意気投合した」「同じ趣味である」という些細な事象が、この勘違いを大いに助長させている。息が合うことや意気投合することは、決して相性の良さの証明ではない。それはただの「一時的な共通点」同期に過ぎないのだ。
人が「あの人とは相性がいい」と思い込む時、その大半は「何もしなくても、無条件に自分を理解してくれる」「言わなくても分かり合える」という期待感に満ちた状態を期待している。
しかし、これは人間関係における最大の認知の歪みである。
本来、他者との関係性を構築するには、相手の意図を組み確認し、行動原理を分析し、自分の言動を微調整するという面倒な手順が伴う。この手順をすべてスキップして、最初から「相思相愛の完成品」を手に入れたいという怠惰な欲求と、「運命」というファンタジーに夢を抱いているからこそ、人は騙される。それほどに人は、癒しや愛を欲しているともいえる。
一度「運命の相手だ」と思い込んでしまうと、人はその後に発生する小さな違いや摩擦を「何かの間違いだ」と無視し、あるいは「運命の相手なのに、なぜ私を分かってくれないのか」と、相手に自分の不満を一方的に突き出し始める。
すべては「最初の認知のズレ」から始まる傲慢な妄想に夢を見続けている代償である。
息をするように「合わない」のが人間のデフォルト
「あの人とはどうしても分かり合えない」 人間関係に行き詰まったとき、多くの人はよくそう言って頭を抱える。
しかし、「分かり合えない」と悩んでいる時点で、すでに思考はズレている。なぜならその言葉の裏には、「分かり合えるのが当たり前」という前提があるからだ。
人間は一人ひとりが完全に独立した、別個の生き物である。 肉体も思考も完全に別々であり、それぞれが独立した人生を歩んでいる。吸う息の深さも、心臓の鼓動の速さも、物事を感じ取る感性も、日々の体調も、何から何まで違っているのが当然なのだ。
はなから「合わない」のが正常であり、デフォルトなのである。
他者と接したときに違和感や拒絶反応を覚えるのは、あなたの感性が正常に動作し、あなたが他人に侵食されず独立して生きている証拠に他ならない。
それにもかかわらず、世間の「好相性」というファンタジーに夢を見続けている人は、この当然の現実を忘れてしまう。そして、実際に合わなかったときに「自分の心が狭いせいだ」と責めるか、「裏切られた・そんな人だとは思ってなかった」と相手に怒りをぶつけ始める。
合わないをスタートラインとすること
「息をするように合わない」のが人間なのだから、合わない相手と出会ったときに絶望する必要もなければ、自分を卑下する必要も1ミリもない。
私たちはまず、この「合わない」という更地のような現実をスタートラインとして受け止めるべきなのだ。
合わないと最初から認識していれば、「分かってくれない」という無駄な勘違いや被害妄想を生みにくくなる。そこを基準にして自分と相手を切り離して俯瞰するからこそ、無駄な期待で自分をオーバーフローさせるのを防ぎ、「では、このはなから合わない他人とどう折り合いをつけるか」という生存戦略の話を始めることができる。
一瞬の「噛み合い」や「引き寄せ」に我を忘れ、無防備に相手の領域へ踏み込むからこそ、後で取り返しのつかない摩擦が起きる。
「合う人」が最初から存在するのではない。 では、人はなぜその一瞬の「同期」に狂わされ、勝手な期待を膨らませて互いを侵食してしまうのか。
その相互破綻の裏に潜む「領域」と「認知」のメカニズムについては、また触れようと思う。
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