霊障という幻想を断つ――不調の正体と自立の作法

感性|神社仏閣

神社仏閣へ参拝し、身体に不調を感じる。 それをすぐに「霊障だ」「悪いものが憑いた」と騒ぎ立てる人がいるが、結論から言おう。それは9割以上、霊障ではない。

干渉し合えない存在に対して、一方的に干渉されまくると考えるほうがどうかしている。そもそも、その歪んだ思考こそが体に不調をきたす原因だと言っておこう。

こんなことは正直自分から言いたくはないが、信憑性のために明かしておきます。私自身、霊感は少なからずあるほうだと自負しています。だが、だからこそ私は「リアル」と「感覚」を重ねるます。

その私の経験上、霊障というものはほぼ起きない。

■ 身体が拾う「違和感」の正体

参拝しに行っただけで起きる身体の不調。その多くは霊障と呼ぶものではなく、気当たりや空気感、その場の波長によるものだ。大概はその場を離れるだけでおさまるはずだ。

細かく症状を分けるなら、多くは以下のようなものだろう。

  • 身体の摩擦: 頭痛、肩や首が重い、気分が急に沈む。
  • 肌で感じる変質: 空気が急に重い、ひんやりする、自分の周りだけ何かに押しつぶされているような感じがする、鳥肌が立つ、誰かに見られているような気がする。

この中で霊障の可能性があるとすれば「肩や首が重い」くらいだが、それでも9割以上は霊障とは言えない。そもそも、そんな頻繁に干渉されるはずがないのだ。

■ 「感覚」と「霊障」は別物である

「いる・いない」「感じる・感じない」、あるいは「お告げ」などは、霊障(干渉されて起きていること)とは全く異なるものだと断言しておく。

あなたの感じるその違和感は、現象としては「合っている(起きている)」ものだ。しかし、それをすべて「霊障」として同意に考えるから、自分の心が勝手に恐怖を作り出してしまう。その結果、ストレスによって自分の体に異変をきたす。これが「霊障」と呼ばれるものの大概の原理だ。

感覚を否定する必要はない。だが、それを「攻撃」と捉えるのはお門違いだ。

■ 誰にも決められない「合う・合わない」

正直、あなたにどこが合うかどうかは私にはわからない。神社に縁がある人、寺院に縁がある人、そのどちらでもない人もいる。最終的な判断は自分自身でしかないのだ。

判断の基準として、「違和感がある場所」は、逆に合っている(反応している)可能性も十分にある。そこの細かい判断は、自分自身がそこに恐怖を感じるのか、苦手だと感じるのか、あるいは温かいと感じるのか。その感覚がすべてだ。

合う社・院に出会った人は、ほぼそこにしか行かなくなるだろう。私事でいうなら、いろいろな場所に行ったが未だにそれはない。良かったと思える場所もあれば、二度と行かないと思った場所もある。それでいいのだ。

■ ご利益という名の虚飾を捨てる

私はあの空気感を感じるのが好きだから行く。行きたいと思わないと行こうとすらしませんし、選ぶときに「ご利益」なんかでは選ばない。

そんな後付けのご利益を信じるほうがどうかしている。ご利益を気にするなら、私は主祭神で選ぶべきだと思う。主祭神がどういう想いで生まれ、祀られたのか。それがすべてだ。

■ 自立のための「不断の整え」

スピリチュアルと物理(現実)の狭間にあるものは、両方の視点で見なくてはならない。 雰囲気だけに飲まれれば、方向性を見失う。

だからこそ、どっちなのかわからないからこそ、普段からの自身の環境の整えが大事なのだ。自身の不断の状態を保ち、気づきのアンテナを張ることで、何かに流されることなく自立し、自分にとっての良き判断ができるようになる。

その「整え」の具体的な手段として、私は日々の浄化ツールや環境設計を重要視している。

調和より普遍を…行動が人生をかえる。

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